「……矢島さん、どうしたんだろう」
今日も、上司の矢島は来なかった。
これで、一週間。 矢島の無断欠勤は続いていた。
その間留美は一人だ。
それは言い知れぬ隔離感と言ってもいい。
上の空で、いつの間にか、たどり着いたのは、以前教えてもらった矢島のマンションだった。
築10年とそこそこ程度の少し老朽化が見えてきたマンションに射し込む夕日はどこか恐ろしげである。
コンクリートの地面から見上げたそんな薄灰色のマンションの明かりはついていない。
黒と白そして、その中間のコンストラクションは調和を取り、心を揺さぶった。
一種の拒否感がそこには確かにあった。
近寄りがたい――。
だのに、留美は端に括りつけられたかのように立っている階段を上り始める。
カツンッ、カツンッ……響き渡る足音の反響が大きかった。
カツンッ。
「ここ、だったわよね」
何だか、どうして自分がここに来たのか分からない、まるで理解不能。
気配は留美を包んだ。
一度、ごくりっと唾をのむ。
留美は、僅かなためらいを覚えたが、すぐにそれを捨て去り、ベルに手を伸ばした。
長袖の裾から伸ばされた健康的な色の手は橙色の夕焼けに染まる。
すっと、ベルは壁へと吸い込まれ、軽い音が鳴った。
「――」
返事は無かった。 それどころか、こちらへと向ってくる足音すら聞こえない。
寝ているのだろうか?
もしくは、留守。
矢島に限って居留守は無いだろう。 留美は多寡を括っていた。
その瞳は純真過ぎた。 とても壊れ易い。
そして、誰にでも侵される圧倒的スタンスを有する隙間だらけの空白。
「くっ――」
留美の瞳が突然、赤く染まったのはその時だった。
ぐらっと、身体は傾き、何が何だか分からない。
自分は誰なのか、数秒後にはソレすら忘れ去っていた。
ただ、忘却してしまった、というのはあまり的確ではない。
留美はにこりと笑っているからだ。
赤い目は一方に変わる余地は無い。 笑みを崩さず立ち上がった留美は再びドアに向かい合った。
あろうことか、ノブを、留美は回しだす。
「――」
ようやく、変化を見せた表情は壊れてしまいそうなほどの満面な笑み――。
ドアは開かなかった。
/5-1
「何、やってるのかしら、あの日のわたし」
顰め面でこそこそ、とドアの前の留美を見つめるのは、現在の留美だった。
客観的、第3者の目、として見る。 それにより、自分がどういうことになっているのか?
どうして、こうなってしまったのか、今分からない事のその大半は解決できる見込みらしい。
都合が良すぎるのでは? と先ほどまでは思っていたが自分が今眺めている景色はあの日のものだ。
それだけじゃない。 佐祐理は決して見ていない、あの日の留美の行動まで、綿密だった。
まるで、自叙伝でも読んでいるような不思議な錯覚に襲われるも、監視は怠れない。
「だめだ、だめだ、と。 とにかく、わたしを監視しなくちゃっ」
意気込む留美とは裏腹にその日の留美は怪奇的だった。
ここまできて、留美は自分の行動に疑問を抱く。
確か、自分はあの日、真直ぐ帰ったはずではなかったか?
夕飯はコンビニの弁当で済ませた、というのも記憶に新しい事のはず。
では――?
「うっ……」
留美の視界が、突如として暗転した。 後頭部を撲られたような気配も無い。
勿論、体は至って健康。
「ダメだよ。 勝手に、過去を顧みるなんてことしちゃ……。
自分がどれだけ愚かな存在か、ソレを知る事にしかならないんだよ?」
「――」
視界ゼロで、語りかけるその声は自分より幼いか僅かに年上くらいの女の声だった。
「何、一体、何するつもりっ!?」
「・・・。 どうやって、この世界に入ったのかは知らないけれど、あまり、余計なことに手、
出さない方がいいかもよ?」
ぼうっ――。
まるで、幽霊。 黒い視界、留美の真ん前に彼女は降り立った。
そして、ぺこり、と慇懃に頭を下げる。
「ここは、第3者の世界、じゃないの?」
「死んじゃうよ? この先にあるのは過去でも何でもないから。
能力者として、覚醒していないあなたには無理難題だから――」
淡いブラウンの長めの髪を指でクルリッ、と彼女はいじくった。
「どういうこと? ねぇ、第3者の世界なんでしょ?
ここは?」
「……あなた、迷い人じゃ、ないんだね」
「――?」
明らかに不快な顔で、そう言った彼女に留美は眉間を寄せた。
まったくもって、理解不能。
それなのに、彼女の聡明な顔立ちには理解の色すら浮かんでいた。
「な、何よ、その、わかりづらい顔……」
「わたしの権限がある限り、あなたをあの世界には戻せない。
でもね、わたしがあなたの保護者になれば、
あるいは、あの先を早送りすらして、見せてあげられるよ?」
「――取引を、しよう、ていうの? それなら、説明が欲しいわね」
腕を組む留美の眉間は更に深くなる。 猜疑の色が濃かった。
彼女はそっぽむく。
「――ど、どこ行くのよ」
踵を返した彼女はすたすたと歩き出してしまった。
当然、留美の声になど、聞く耳は持たない様子である。
……ほんと、ムカッとする。
「ここ、わたし以外出口知らないから」
「――……」
少しくらい、説明してくれてもいいじゃないか、留美は投げやりにそう思った。
/5-2
あまりにも短い歩みの後、開けた世界は矢島の自室の中だった。
矢島はどこか――、留美は視線を巡らせると、蒲団にうずくまる、矢島の姿を発見した。
「……や、」
「聞こえないよ。 あなたは、ここでは存在してはいけないものだから。
あと、2分と15秒。 あなたの知りたい事はみーんな分かるから、大人しくしててね」
「ねぇ、それじゃ、教えてよ。 わたしは何なの?
あのわたしは何?
ここは、第3者、じゃなければ、何だって言うの?」
「――あなたは、能力者。 あのあなたは、そうだなぁ、あんたの内側。
タマゴの黄身みたいなものだよ。
熱されても、すぐには固まらない。 本来ならじっくりと焙っていかなくてはいけないのを早めると、
稀にああいう症状が起こるのよ。 大抵は、記憶に残らないんだよね、あれ。
あと、ここは、第3者、のソレとも言うのかもしれないね。
失っている時間を保存しているレコーダーのようなものだから。
さしずめ、わたしはその活動を管理する代行者、といったところかな?」
「待ってよ、そ、それじゃ――」
ぎぃ……。
「――」
「過去は、足しても、引いても、同じ答えしか出ていないんだよ。
もしも、あの時、こうすれば……なんて思ったのならそれ、捨て去った方が良いよ」
驚愕の色を浮かべる矢島の瞳は凝。
留美は見てなどいられなかった。 これが、真実なのか?
というのなら絶対信じる事など出来ない光景が、その日、起きていたのだ。
それが、解った。
その日、留美の能力は半分以上目覚めたのかもしれない。
意識が無いから、気がつかない。
ごとり、生気のない矢島を留美は満更でもない表情で引きずり、椅子に腰掛けさせた。
「お前が私を殺したのだ。 一般人である、私に能力者であることを告白したがために
……酷い、私、まだ死にたくなかったのに
――私、可哀想、あなたが死んでくれれば私にも安らげる時間が訪れるかもしれない」
耳もとでその日の留美はそう囁いていた。
こくり、とまるで人形のような矢島は頷く。 にいっ、と笑い、留美は去っていた。
「時間は逆流する事なんてできないよ。 やり直せない。
――先、行こうか」
ぽんっと、彼女は留美の肩を2、3度軽く叩く。
せめてもの励ましだろうか?
「いや……、いや、嫌ーーーーーーーーーーっ!!!!!!!!!」
今まで、こんなに自分がわからなくなったことなど、留美には無い話だ。
だが、今、この時だけは呪い殺したくなるくらい、自分が嫌いだった。
再び、留美の視界は暗転する。
あとがき
あと、数話で七瀬編はお仕舞いです。
というか、25話くらいまでには今の内容の大半を仕上げて祐一パートに戻したいです。
感想とかもらえると嬉しいです。
とっぷ