第45話 約束 後編  了→




「――随分と冷静じゃないか」

 嘲笑を含んだ黒薙の足元には生命の糸が希薄となって、
 今や肉の塊といっても過言ではない祐一が転がっていた。

 冷静? そもそも、どうして茜が冷静さを失わなければいけないのだろうか。
 あくまでの、まるで嘘のように茜は落ち着いていた。

「わたしは、あなたと一度も戦った事はありませんよ? 勘違いしないでください。
 そこに寝転ぶ馬鹿男も、わたしも、まだ負けを認めていませんから。
 ――決して死ぬ気はありませんから」

 それは喜劇だな、と黒薙は口を緩め、開いた胸元を覆うかのように衣服を整える。
 
 茜はその隙に極圧縮の詠唱を行う。 それは茜にとって賭けだった。
 平常心でいられるのはこの賭けの所為――。 黒薙のように勝つことしか頭に無く、
 負けた事も0に等しい男になど祐一の残骸は興味が無いに等しいだろう。

 これは、茜にとってみれば勝ちゲームに等しい。 今、この場所を凌ぐ完全な対策。
 自分の能力以上のことをしない、というポリシー、そして自分の盾としてこの上なく使える男、
 相沢 祐一のお陰で茜に今、”焦燥”の二文字は存在しない。

「何をしている。 無駄な抗いを俺は好まない」

 言い換えてしまえば即座に殺してやろう、という意思表明だった。
 
――馬鹿な男。

 いや、茜にしてみれば男など、”彼”以外その存在すら明確であった。
 皆、自分を満たすことはあり得ない。

 一瞬だけ、茜は彼のことを思い、唇を揺らしその名を紡ぐ。
 フッ、と――軽く揺れた口元。

――相沢 祐一、残念ですが、まだ死んでもらうのは惜しいです。
 生命の事切れを向かえるその前まで、わたしを守護しなさい。

 虚ろぐことの無い真摯な視線は祐一に注がれた。
 今、この瞬間、黒薙が祐一の異変に気がつけばそれで済んだのかもしれない。

「冥土の土産に教えてください――黒薙。 相沢 祐一をしとめなかったのはどうしてですか?」

「ハッ? 決まっているだろう? もう、こいつは死んでいるからさ」

「無様ですね。 あなたは存外にも、優しいのかもしれません、いいえ、ズボラなのでしょうか?」

 今、自分の足を掴む男を見て、何も思いませんか?
 茜の一言に黒薙は足元の疼きを覚え、視線を下ろした。

「……っ!? 居ない」

 そこに、相沢 祐一は存在しない。 だが、殺気はおろか希薄な気配すらここには存在しない。
 では――。

 茜の口元がゆっくりと、孤を描いた。

「あなたはバカです。 汚点は3つ。 わたしに隙を与えた事。 相沢 祐一をしとめなかったこと。
 最大にして――基本。 わたしの本職を理解していなかった事」

 右半分、幸い皮膚は破けては居ないがどす黒く染まった顔面には希望の片鱗すら感じられない。
 祐一を、黒薙が感知できるはずが無かった。
 何故なら、祐一には意思が無いから。 全て、里村 茜の描いた紋章によって祐一が動いているのだから。

「……確かに誤算――、だが、その程度俺にどう響く? 今一瞬にして殺してやろうか?」

「――嫌です。 それと、無理です。 聖刻を全開放にしてありますから」

 そう言って茜は手をかざした。
 祐一は操り人形として、走り出す。
 
 傍観者、里村 茜にとって、祐一の存在はその程度であったのかもしれない。
 盾。 聖刻を刻んだその時から祐一は――。

 既に、祐一には聖刻を完全に操る力など存在しないはずであった。
 黒薙もそれだけは戦っていて解っていた。
 だからこそ審判を下してやったというのに、この男は死しても抗うという――滑稽だ。



 だというのに、祐一の右腕はラインを描き、黒薙の右胸を深く貫いたのであった。
 目を疑う隙すらない。 何もできなかった実情に黒薙は沈黙する。

 ぶちんっ、ぶちんっ、と何かが切れる音。
 そして、祐一が崩れ落ちる音が響き渡る。


 そして、無音――。


 劈くような茜の足音がまた一歩黒薙に近づいた。

「相沢 祐一の基礎代謝能力ではあなたには望めない。 それがどうかしましたか?
 あなたは確信した。 甘く見た。 わたしを――」

 黒薙は動く事すらできない。
 動きたくても、次第に体が硬直していくのが理解できた。



















「秋子さん、大丈夫ですか?」

「ええっ、まったく問題ありません」

 ゆっくりと目蓋を見開き、ぼぅっとした眼で秋子は口を開いた。
 か細く、今にも消えてしまいそうな声はまるで何かの予兆のように、それでも、良く響いた。

 ここ数日間だろうか? 秋子は帰ってきてからずうっとこの感じだ。
 最初こそ驚いたものの、秋子は秋子のままでただ衰弱しきっただけである。
 寝れば直る、と美汐は思っていた。

 だが、1日、戻ってきた秋子は余りにも酷薄で、刻一刻と何かを削いでいるような印象を感じる。
 この正体は、何なのか。
 そんなことをずぅっと考えていたのに、今だ美汐には答えが見出せない。
 
 秋子はまるで海だ。 大海。 穢れも何もかも飲み込んで海底に覆い隠す海だ。
 何も見透かせない。そしてヒンヤリと冷たくて心地いい、母なる海。

「――秋子さん」

 ぎゅっ、と美汐は秋子の腕を握り締めた。
 両親は健在だ。 だが、美汐にとって両親とはこの数年来で価値観が随分とずれている。
 自分を突き放す父親。 どこか遠慮がちな母親――、能力者とは何なのだろう。
 最近、美汐はよく考えるようになった。

 歴然と刻まれた空白を補うかのように自分を導いてくれた秋子には恩義を語りつくせない。
 自分を信じてくれる人間、みさおであり、真琴であり、名雪であり、そして祐一のそこに連なる。
 ――とくに祐一は特別だった。

 真琴、とは今は電話で話すくらいしかできない。
 日々に忙殺された真琴はそれでも自分のことを思ってくれているとはどんなに幸福であろうか?
 祐一とは、真琴を通じて知り合った。
 祐一はいい奴、と真琴は思っている。 美汐も同意見……。

 秋子が里村 茜のところへ行く。 祐一がそこに関与しているのは必須だろう。
 もしかしたら会えるかもしれない。 数年来、会っていないが、最初はなんと話そうか?
 またおばさんくさいとか言われるのだろうか?
 ・・・・・・・下心の少しくらい恥じらいとして見受けて欲しい。

 俯きつつ、秋子に視線を寄せた美汐はちょっと複雑な気分になっていた。



「天野さん、コレ、あなたが持っていてください」

「えっ?」

 突然だった。 秋子は手を伸ばし、自分に茜が持ってきた祐一のデーターを差し出さしたのだ。

「祐一さんは気付いてはいない。 いいえ、気付くはずです。 もう、それほど時間はありませんから」

「秋子さん、止してください、そんな遺言みたいじゃないですか!」

 秋子は首を横に振る。 一体、何を否定したのだろうか?

「あ――っ!?」

 ドゥンッ!、タクシーが急停車したため、美汐が答えを聞き損ねる。
 美汐の不安に感づいたか? 秋子は軽く美汐の肩に触れ――ミラー越しに光景を眺めた。


――これは……。

 秋子は眉を顰めた。結界が張られていた。
 だが、秋子には見えた。

 目の前の凄惨な光景が――。 倒れる祐一に絶句し、佇む茜を呪わしく思い、黒い塊に警戒心を寄せる。

「……秋子さんっ、何がっ!?」

 内心、美汐にこの光景が気付かれていないことを安堵しつつ、無言で秋子はタクシーのドアを開けた。

「蔵等さん、天野さんを先に里村 茜宅へ送っていって下さい」

「っ!? 秋子さん――!!」

 秋子は、無言でドアを閉めた。 この光景は美汐には、夢見る少女には残酷すぎる。
 幕切れはしめやかに――。

 ザッ――重い威圧がその場を支配する。

「――水瀬 秋子」

 


 

「こんにちは、里村 茜さん。 ――少し遅かったみたいですね」

「ええっ」

 茜は後ろめたさの欠片すら感じられない落ち着いた面持ちで秋子と向かい合った。
 祐一の負傷は、彼女にしてみれば祐一自身の力の不足から起因しているとしか思ってはいない。

――こんなに、痛ましい祐一さんに会おうとは。

 秋子にしてみれば数年ぶりに会う祐一の腫れあがった横顔、どす黒い右腕、そして諸所抉れている身体。
 あたりに今だ滴る鮮血など、目も当てられない惨状である。

 誰が、こんなことを?
 もちろん、秋子とて茜を信頼しきったわけではない。 むしろ、秋子にしてみれば、信頼できる存在など、
 皆無に等しい。 自分が率先してやらなければ――頼るのではなく、頼られる存在。
 その呪縛は余りにも過多であった。


 それでも、秋子は恭しく茜に一瞥し、自身の疲弊と緊張を覆い隠す。
 悪寒が走った。 目の前の黒い存在に対して、秋子は警戒心を強める。

 茜を問いただしておきたい気持ちとは裏腹にことは円滑さを損失していた。
 黒薙に、祐一の一撃は確実に”聖刻”として刻まれたはずだというのに、

 どうして――?

 茜も怪訝とその光景を見つめる。


 ずぷりっ。 ずぷりっ。 ずぷっ!!!……。 

 動かない――動かない――俺はまだ、死んではいない。
 
 神経という神経が。 黒薙の体内で別部位で活動する神経が損失を修正した。
 ああああああああっ!!!!!!!!

 黒薙は屈辱した。 動けないという屈辱。 無視されるという恥辱!!!!
 知らしめてやろう。 俺の真意をっ――。

――正義――。




 再構築。 黒薙が茜を打算していたように、茜もやはり、黒薙を打算していたようだ。
 データーは刻一刻と変化する。

 黒薙は人間という領域で納めるにはレヴェルが違う、云わば古参の悪獣とまで呼ばれる領域に達している、
 などとは茜は知る由も無いのは明白。

「話は、後になりそうですね。 とても、長い話なんですよ?」

「水瀬 秋子、あなたには黒薙を処理できるんですか?」


 多分――らしくない曖昧さを秋子は答えた。


 秋子の全身が白く発光する――仄かに白く、秋子は黒薙へと詰め寄り、その両腕をかざした。

 能力”規律の損傷”は秋子の大量の有無で大きく傾く典型的なそして性質の悪い能力である。
 本来あるべき、なす事が可能なパーセンテージをセーブし、エラーを起させる。

 パソコンでウイルスに感染被害に合うことが、人間に立ち代ったということであろうか?
 ゆっくりと、なでる様に、黒薙を秋子の能力が侵食していった。


 その光景に茜の額から一筋の汗が滴る。
 癒しすら、秋子からは込み上げていた。 恐ろしい――なんて恐ろしい。
 今、侵食を繰り返している秋子の光景が自分にはルネッサンス絵画のようにすら見えてしまう。
 繁栄の陰には没落が存在する。 衰退していく――果たして秋子にそれはありうるのだろうか?



 



 にんまりと――。

――っ!!

 刹那のできことだった。
 茜と黒薙の視線が重なったのだ。 余裕すら伺える黒薙の視線が茜を現実に突き戻す。

「秋子さんっ!!!」

 抑止力など働かなかった。
 水瀬 秋子が宙を舞う――黒薙が立ち上がったのとそれはほぼ同刻だ。

「……俺をここまで楽しませたのは、昨晩のフリージア以来だ。
 能力者に、まだこれほど俺を危惧させる存在が?
 ありえない――」

――ばかなっ。

 秋子の身体は驚異的速度で地面へと叩きつけられ、アスファルトに転がった。
 そしてゆっくりと立ち上がったとき、黒薙は察する。



「はんっ、舐められたものだよなっ、俺も。
 お前も、また、分不相応な状況、というわけかっ」

 黒薙は憤怒した。 そしてその激昂を秋子へと叩き込む――漆黒の鎌に変えて。 




あとがき

 秋子さん対黒薙に路線変更。
 祐一対黒薙後編は約束の最後にて。
 
 


 とっぷ