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第50話
――それが、俺だというのか?
――正直、里村の言っている意味が理解できそうに無かった。
だというのに、この体は、深層は深々と俺を蝕んでいく。
解らないんじゃない。
自己暗示にも似た否定が自分をくくりつけているのを俺は今理解した。
それは恐怖だ。
自分を知らない――そして、一番、癌となりうる部分だけが浮き彫りにされた。
蔓延する、俺を消そうとするワクチン。 そして聖水。
汚らわしきは自分自身。
贖罪の可能性は皆無に等しく、正直、俺は期待していない。
祐一は延々と、すら思えた廊下を駆け抜ける。
開放の兆しが一向に得ない永劫にすら思えた。
48の王。 この前までは何もぴんっとこなかったのに今は口に出すだけで憚ってしまう。
のろいだ。 言葉というなの呪いが祐一を暗黙のうちに埋葬しようとしている。
「消えろよっ――」
消えてしまえ! と思うのは自分自身の奥底の嫌な部分。
それだけを感じた時、喉元まで出掛かっているとき、
祐一は堪らなく嫌だった。
曖昧でありながらも、ミクロに、自分を押さえつける呪縛が、今目の前に見えるようだ。
「祐一くんっ!!!」
「――」
亜麻色の髪が、燭台の灯りに反射され、とても穏やかな色合いをしめした。
今、何もかもが自分よりも華やかに見える。
あゆの呼びかけに、祐一の足は止まった。
「銃声が聞こえたから、引き返してきたんだよ。
ねぇ、何があったの!?」
「……」
――いえるかよ。
「何、茜の持っていた銃が暴発したんだよ。
あいつ、安全装置外してたらしくてさ。
それだけだ」
歩き出そうとした――あゆさえ、自分の前に立ちはだからなければ。
「嘘っ!」
「嘘じゃないって」
祐一は声色を必死に押さえ、頬の筋肉を調整し、表情を和らげる。
真摯なあゆの瞳に、祐一は見透かされていることを理解した。
だから、どうしたというのであろうか? 今までのことが全て――偽りだった、とあゆに説明しろと?
それは余りにも酷すぎた。
泣いて許してもらえるなら直ぐにでもしてしまうかもしれない。
だが――祐一がそんな器用なことのできる人間のはずが無く――ただ押し黙った。
「祐一くんっ! 教えて、何があったの?」
「――何も、ねぇよっ」
キッ――。
「そんなはずないもんっ!! じゃあ、教えてよっ!
祐一くん、どうしてそんなに辛そうなのさっ!!!」
ぱぁんっ――。
乾いた音が、木霊する。
祐一は我を疑った。 何をした? 今俺は何をした――と。
「お前が、悪いんだからな」
いいたいことはそんなことじゃない。
――今すぐ、頬を赤く腫らし、口元から血の線が垂れるあゆを抱きしめてやりたい。
だが――誤ることすら祐一にはできなかった。
人とは余りにも、脆い。
茜の言葉との葛藤に何のめども付けられず、――”48の王”という呪縛の前に祐一は拒絶した。
「――すまない」
ただ、一言呟くと、足があゆの背後を横切った。
『――すまない』
あゆの耳を祐一の懺悔が反復した。
不思議と涙が零れ落ちない――本当に不思議なことに。
ただ、あゆは祐一のことだけを考えた。
あの祐一は尋常じゃない。
誰よりも、自分のことを尊重してくれた、唯一自分が信頼できる人間、相沢
祐一。
初恋の彼は今、自分を瞳に捕らえてくれているのであろうか?
少なくても――自分は、と親友の位置に自分は佇んでいた。
祐一には祐一の生き方が、あゆにはあゆの生き方がちゃんと敷かれている。
では、今の2人のとっている行動はそのレールの中継点に過ぎないのであろうか?
あゆにはとっくに脱線してしまったかのように思える。
――ボクは、祐一くんのことが好きだ。
それは男、とかそういう意味だけではない。
性格、癖、そして何よりも、相沢 祐一、であることがボクは好きだった。
それが、月宮 あゆの正直な気持ち――。
「祐一、くん」
開かれた視界の先は、打ちひしがれた自分とただ板張りにところどころワックスが削れた床。
見上げればくすんだ白い天井と、それと燭台の幻想模様な灯り。
祐一はもうそこに居ない。
自分が呼んだ祐一が、今まで声を駆けても返してくれなかったことは何度もある。
何でだろうか?
祐一の存在がこんなに遠く思えたのは久方ぶりだ。
もう、何年も前。
――自分を忘れて欲しいといったあの日以来だよ。
こんな孤独感。
「……」
たたたっ――と床を揺らす足音が聞こえてきた。
一足遅く誰かがこっちに駆けつけてきているのであろう。
それが祐一だったらどんなに嬉しい事か。
――ハハッ。
思わず自嘲。 バカみたいだ。
今自分の頬をひっぱたいてどっかいってしまった男。
――戻ってくるはずがないじゃないか。
「うっ――」
喉が思わず上ずった。
距離を感じた。 誰にも来て欲しくない。 泣き顔を見ていいのは祐一だけなんだ。
もっとも最愛にして最高の親友、相沢 祐一だけにしか、泣いた面は――。
「……」
「泣かないで下さい。 あゆさん」
――その声は栞ちゃんだった。
慈愛にも似た声はボクに共感を与える。 栞ちゃんもまた祐一くんを慕う人だからかな?
頭をあげたぐしゅぐしゅのあゆの頬を見て栞は一度声を呑んだ。
「どうしたんです? その腫れ」
「……別に、どうってことないんだよ」
「あゆさん?」
「本当に、どうってことないんだよ」
――あっ。
あゆは立ち上がった。 そして、栞の手を握った。
「わっ、どうしたんですか? あゆさん」
「祐一くんが迷っているんだ。 どうしたらいいの?誰か教えてよ」
「えっ?」
「さっきまで、ボク、そういおうと思ってた」
栞にはまったくあゆの言動の意味が理解できそうになかった。
何を言っているんだか?
祐一が頬を殴った? それなら叱責したほうが――でも、あゆはそうじゃないという。
これは、あゆの同情でない、真摯な胸の内だ。
ふと、あゆは孤独の内の深層を垣間見た。
それは祐一と比べれば圧倒的に薄い、赤子のようなものかもしれない。
だが――――。
あゆは、祐一のことが時々判らなくなる。
「ごめんね、栞ちゃん。 その、ちょっと祐一くんを探してくるよ」
決して心はすがすがしくない。
あゆの作り笑いは栞には酷く痛いものに見える。
気がつきはしないのであろうか?
何も知らない――だからこそ、何か知らなければならない。
あゆは自分の愚かしさを責める事となる。
そして、理解する――自分がどれだけちっぽけな存在であるのかを。
祐一の名を、名雪は連呼した。
まるでそれしか言葉を知らないかのように名雪はただ自慰に耽る。
いつ放置されたのか解らない建設現場の階段を数階上った先で名雪は1人沈黙していた。
密かに思うのは祐一の匂いと、自分自身への可愛さ。
名雪がどういう経緯でここへやってきたか本人ですら定かではなかった。
ただ、冬になれば寒さで凍えてしまいそうな部屋は今の季節は過ごし易いのかもしれない。
空調は最悪だ。 もう、幾日も風呂には入っていない。
汗が一滴、名雪の頬を垂れた。
そして、ぴちゃりと自身の性器をいじくる音――。
虚無的に響き渡る。
空しさが自分を抱きしめていた。 気がつけばいつもそうだ。
ここ数日、自分自身が見えなくなっている。
気がつけば空港にいた。 気がつけば――今度はここにいた。
自分の中にもう1人自分がいるような違和感を覚えたのはここ最近のことだ。
錯覚する。
「私だけは、祐一の味方なんだから――。 フフ、祐一、私、もう少ししたら迎えにいけるよ」
ぎぃっ――。
「……っ」
ビクッ、と名雪の体は震えた。
「だれっ!!」
――名雪へと、シルエットは延びる。
ゆっくりと、そのシルエットは名雪を確認すると、歩み寄ってきているのがわかった。
堪らなく嫌悪を抱く。 名雪は睨みつけるようにしてその姿を見やった。
「――探したわよ。 名雪」
うっすらと、薄紫色が自分へと向って歩いてきた。
自分の名前を呼ぶ声には聞き覚えがある。
幻聴ではなかろうか? 自分を見捨てた女がここに来るはずがない。
あの裏切り者が――。
「お母さん、どうしてここに来たの?」
自分の意識とは裏腹に驚きの声が勝手に漏れていた。
気がつけば、安堵にも似た声で自分は安心しきって――許している。
許してはいけない。 許したら、その時こそ、こいつらは祐一を、そして私を奪いに来る。
秋子の姿が完全に名雪の前に現れる。
距離にして数メートル。
穢れた自分の前にいつもの顔で佇んでいる秋子に不思議さを覚えるべきであろうか?
違う――秋子にとって名雪は娘だ。 まず、安心を秋子が抱いても当然。
秋子それ以上を追求しようと思わないだけだ。
薄汚れた衣服の自分はすっと立ち上がり、秋子へと近づいていった。
「おかあ さん」
「ただいま――名雪」
――自律神経が焼き焦げそうな気配。 熱い――。
名雪の鼻腔を、その匂いは汚染するのに時間はかからなかった。
「どうして?」
「えっ――?」
抱擁を交わす名雪と秋子――。 だが、秋子の背後に強烈な寒気まるで”氷”のような気配が宿った。
刹那のことだった。
秋子は思わず名雪から飛びのく。
それで、名雪の何かばぷつんっと音を立て千切れた。
名雪の口からは震えるようにしてヒステリックに声が漏れる。
「どうして、お母さんから祐一の匂いが、するの?」
辺りの湿度が冷ややかなものへと変わっていった。
大事なものとは?
ああ、そうか――。
「やっぱり、わたしには祐一しかいないんだぁ」
嬉しい――凄く、嬉しくて死んでしまいそうだ。
孤独ではない。 何故なら祐一がいるから。
祐一の匂いがそこにある。 それを覆っているのは誰か?
――水瀬 秋子という名前だけの能力者、母親?
躊躇うな――。
全身を雹粒が包み込んだ。
名雪の目の色はアクアマリンを思わせる一点の濁りもないブルーへと変化したのを封切りに、ここは氷解した。
「な、名雪っ!?」
秋子は自身が呪わしく思える。
ここにまで、神区域は病巣を――癌を持ち込んでいたか。
思わず舌打ちをせざる得ない。
「あの日、お母さんは、わたしを裏切った!
祐一を見捨てたんだよね」
「――そ、それは」
「わたし、見てたんだよ。 気絶しているフリをして」
「――」
”さようなら、お母さん”
アイスコフィン――名雪を除く半径20メートルを覆いつくそうかという湿度の極度氷結が発生した。
その連鎖は室内を急速にツララとして雪崩のように突起する。
「名雪――」
全部をかわせず、わき腹を赤く染めた秋子は再度、名雪の名を呼んだ。
「私は、祐一以外に、名雪、と呼ばせることは許さない」
名雪は悪戯っぽい微笑を秋子に返した。
次回予告
「フフッ、祐一、迎えに来たよ」
「祐一、あなた、どうしちゃったのよ」
「後悔するんだったらやらなければいいのよ。
バカね」
「か、わすっみせんぱ〜〜い♪」