空気の先端まで凍ってしまったかのような眼下はひりつくような霜世界が広がる。
ひりっ――と足を踏み込むたびに、涼しい風が頬を伝った。
……とても、ここが栄華を極めた都市とは思えない。
ここは、廃都。 人の息吹も根絶された、望み無き世界の片隅だ……。
数時間前、ここには今無き様々なものが存在した。
駅前の商店街には様々な買い物を楽しむ客たち。
軽食でもしようと、足を止める。 そして、何よりも商店街を歩く人の姿。
生命はそこに、為しえていた。 ――生きているのだろうか?
空想のように氷漬けにされた人間たちは……。
(氷柱芸術?)とシエルは思わずその光景を疑った。
恐らく、ここには自分以外降りることはあり得ない。
いるとすれば、当事者くらいなものだ。
そんな虚無にも等しい世界を、シエルはブーツで歩いた。
覚悟は出来ている。
もちろん、死ぬ、とかそういうものではなく、戦う意味での覚悟だ。
揺れる青髪と、真直ぐな瞳だけは、世界をしっかりと見つめていた。
「――」
”砂漠、樹海、海原、氷山、煉獄……。
人はどうしてこうも危険な世界に足を踏み入れるんだろうか?”
要素というものをシエルは理解するのに困惑した。
もう、今からしてみれば大分、昔――自分はロアになった。
忌まわしい記憶を捨て去りたい、だが、捨て去れない。
覆い撫せるほどかさぶたに余裕は無い。
常に、シエルは切り傷状態で生きている存在だ。
理解者、あるいは、自分の痛みの解る存在を欲するのは当然といえた。
だが、そんな存在に身をゆだねればゆだねるほど、空しさを覚える。
虚ろな人形――それが今の彼女。
愛する、とかいう固有名詞を驚くほどに疎んじ、ただ平然と生きる事に執着した。
それは我欲に満ちているが余りにも哀れむ対象になりうる。
ロアを殺せるはずだった――確実に自分は殺すはずだった。
だが、歴史は黙秘権を自分に提示したらしい。
条件は開放――そして、忘却の彼方への旅路。
シエルは無駄に終わるだろう。
そう。 何も成し遂げられないままに、埋葬機関という陰湿な世界の片隅で消えて行く。
”嫌だ!!”という反動も生まれるはずだ。
だが、それすら処分した。 この仕事は、シエルにとって唯一無二の自身の証明であった。
それ以外に存在理由の無い人間……いてもいなくても同じような存在。
”生きたい”と同時に”構わない”は必ずしも合致し得ない。
ふぅ……そんなことばかり考えているから、無駄に時間が過ぎて行くのだ。
答えを求めるもどかしさを自身の上っ面だけの性格で装い続けた半生、まだ続くのだ。
そうして、シエルは肩をすくめ、軽く文句を零した。
その顔はとても曖昧でなんと称していいのだろうか?苦笑?苦悶?混惑?
「どちらにしろ、私であることに変わりないんですけどね……」
行き着く結論は、自分が生きている。 ただ、それだけだ。
ゆっくりと張り詰めた緊張を解きほぐすかのように開かれた噴水公園の前でシエルは黒鍵を構えた。
そして笑う。
「戦慄を隠せないなんて、下手すぎですよ」
ぴしっ――。 絶対零度の世界がそこには存在した。
可笑しい位の真空が、ガラスのように凍りついた大きな噴水のオブジェを砕き散らす。
醜悪な笑みにすら見えるフリージアの凍えるような涼しさがそこには存在した。
相変わらずの様相は仮面に覆われているが、その髪は透き通るような青。
ただ、細かい装飾の施された長袖のワンピースに身を包んだ存在は超然としていた。
決して隠れていたのではなく、むしろ、待っていたという想定だ。
「この剣は、私の意志の具現です。 あなたには避けられないでしょう」
「――私は、先を見る存在。 笑止。 ここに矛盾など存在し得ない」
なんの前触れもなく、シエルは黒鍵をフリージアへと投擲した。
空間があるかのように、黒鍵は遮られ消滅する。
「――危ないな。 だが、私には通じないことが、証明できただろう?」
「……小手調べはこの程度でいいでしょうか?」
「いいんじゃない?」
フリージアは退屈そうに口元を揺らすと、
消えた。
「なっ!?」
次の瞬間には神経を焼き切らんばかりの衝撃がシエルの背面を殴打する。
背の感覚が鈍い――とんでもない鈍痛だっ。
「っ――」
シエルは声を押し殺し背に手を伸ばした――?――。
不思議な事に、血液独特の湿気はおろか、何も、欠落した箇所は感じられない。
損傷などしてはおらず、シエルは無傷だった。
「……」
形相を改め、自分の背後で佇むフリージアをシエルは察知した。
「言ったでしょう? 私は先を見る存在。 神の領域に達したそんざいであると」
森羅万象に、シエルは思いをはせる。
全知全能であろうと、シエルには唯一、崇める存在”主”以外の存在を神と定義される。
だが、目の前の存在は神だと、自分を定義した。
まるで、捲くし立てるかのような余裕は顔はおろか仕草にも現れない。
あたかも、一抽象物。形容し得ない存在まさに、”神”そう思わせるかのような滑稽さ。
シエルは口元を引き締め、振り返った。
「……錯覚を起し、私を縛り付ける。 それが、神ですか?」
「だとしたら?」
「答えなさい」
肉薄した2人。 シエルは口と同時に、黒鍵を1本フリージアの胸元、目前に突きつけた。
弾力のある胸元にくっ――と黒鍵は食い込む。
「どうします? ここであなたが一歩でも動けば、黒鍵が心臓を射抜きますよ?」
「射抜けるものなら射抜いてみなさい。 結果はとっくに知れている。
私は死ぬはずがない、という歴然とした法則の名のもとに」
「どこまで、その余裕が通じるか見てみたいものです。
あなたは神ではない。
でも、不思議と、人でもありえないようにすら感じます」
シエルの口元に白い水滴が付着する――水?
いや――雪だ。
どうやら、この街の異常気象はまだ終わってい無いらしい。
また、この異常気象を作り出すのが目の前のフリージアであるという仮定も立っていた。
雪が、降るが、これは直ぐにやむみぞれの様な雪だった。
白い腕はやんわりと黒鍵を地面へと下ろしていく。
「……」
「フフッ――運が良かったわね。 私が目覚めてしまう。
私の存在はその時、消えてしまう。
残念」
シャリッ――。
世界にもう1人の足音が響いた。
水瀬 秋子。 もう1人の生存者は腕をだらんっとぶら下げてそれでもいつもの余裕でこちらへ歩む。
白い気配が彼女からは充満している――。
「名雪――もう1人の名雪」
「……水瀬、秋子、生きていたのね」
シエルに向けたものとは言い知れぬ明らかに憤怒に溢れたシニカルな顔。
2重の装いを占めたフリージアの局面は、初めてシエルに人間を見せた。
雪はフリージアの感情の乱れでより勢いと深さを増した。
冷たい気配が空しく、せつせつと地面を覆い隠そうとする。
あたかも、フリージアの汚点を隠し去るかのように、その白さは深かった。
どちらが、本物であるか?
この一瞬でそれははっきりとすることであろう。
「――」
水瀬 秋子に、名雪は殺せない。
だが、彼女は名雪という存在が作り出した悲しさの象徴であり、名雪ではない。
誤解はそこで生まれてしまう。 名雪にしろ、フリージア(名雪?)にしろ――……。
声色は重なってしまうのだ。
「名雪――もう1人の名雪」
「……水瀬 秋子、生きていたのね」
絶対な存在悪。 憎しみの塊は確かに今先に死を逃れた名雪とリンクした。
記憶を共有しているに違いない。 感情をも共有しているのだろうか?
可能性はある。
何故なら、秋子は後悔という言語で薄々気付いているから。
だから、寂しかった――母親である自分を水瀬
秋子と呼ぶ名雪の姿がたとえ投影であったとしても、
やはり……名雪にそういわれるのが、悲しかった。
「でも、安心して。 もう直ぐ、名雪があなたを殺しに来るわ」
「――」
躊躇いは永劫に消えないのだろう。
だが、名雪はもしかしたら、本当に自分を殺しに動くのかもしれない。
時々、名雪が解らなくなる事がある。
秋子の蹴りは一蹴にしてフリージアを消し去った。
無抵抗なのはあくまでも余裕が存在するからであろうことは容易に飲み込めた。
「水瀬 秋子――」
……霧散するフリージアを見下ろす秋子にシエルは声をかける。
「全ては、狂っているんですよ。 そう、こうして、わたしが立っていることすらそれで合致します」
「――」
禁じえない緊張。
察するに易い水瀬 秋子の深い慈悲をこう悲しさ。
肌へと伝わるのはそんな生易しいものではない。
単純化された”怒り”だ。
「シエルさん。 この先へ、行きますか?」
「 行かせてもらいます」
「――ここ、死地に何を馳せる理由があります?名雪を守るのがわたしの役目です。
今は、それ以外、どうでもいいようにすら思えます」
「……変わりましたね。 水瀬 秋子――」
殺す――秋子は暗にそう言っていた。
羊皮紙で綴られた書物はたちまちにして馬鹿でかい重火器へと姿を変容した。
秋子はそれをみて軽く息をつき嬉しそうに白い気配を発散した。
「どきなさい。 これは、教会の命令ですっ!!」
シエルは怒号と共にその鋭利にして禍々しい針芯を秋子へと差し向けた。
秋子は虚ろな笑みを零し、走り出す。
NEXT The Last Moon!!
「何? ナンパならお断りよ」
「手助けが必要か?」
「――くっ」
「さ、里村さんっ!?」
とっぷ