第60話



 シエルの頬に突然、雫が弾けた。

 雨だ――。

「さっきまで、晴れていたんですけどね……」

 雨、といってここのところいい思い出が無いのが事実なのであった。
 つい、数ヶ月前、華音市を襲った能力者――今となっては何であったのか検討がつかない。
 ――が来襲したときも確か雨であった。

 そういえば、遠野 志貴と彼女が最後に会ったのも雨の日であったか……。
 たまたま白米が切れているのにくらりっ、ときたシエルはしぶしぶなけなしの金を叩きにスーパーへと向った。

 釈然としない苛立たしさでキロ量りのお米を2キロほど購入――スイッチが割れてしまうかもしれない。
 そんな強さで押すものだから計量器が逝かれてしまったのも今では最悪な思い出だ。
 とにかくバットデーバットレイニー……ジェーンブライドの季節が近いというのに……、むかっ!



「先輩――何やってるんですか?」

 そう、そんなときだ、久しぶりの志貴の複雑な笑い顔を見たのは。

 一瞬にして雨がやんで虹が出るのではないか? と疑うほどに気分は晴れやかになった。
 こういう姿を知り合いに見られるのは恥ずかしいものだが、今はグチの1つも聞く知り合いが欲しい。

 この際、ダメ上司の北川やダメ真祖のアルクェイドなどのクサレエンでも構わないと思っていた。

 
「じゃすともーめんと!」

「はぁ、……で、先輩、何してるの?」

「えっ、あっその〜」

 陳列された棚をぎょーーーーさんに素通りし転がっていったあきたこまちに罪は無い。
 悪いのは皆、悪天候のせいだ。

 と、シエルは思った。








○






 そして、気配は変わった。

「人の気配……!?」

 歩き続けで、シエルは時折、理解不明なことに衝突する。 この街は既に息絶えた。
 フリージア? 水瀬 名雪? の手によってこの街は死都と化したはずなのだった。

 だが、今、確かに、水瀬 秋子でない気配をシエルは察知した。
 近い――。

 距離にして3キロ未満。
 
 シエルの足なら5分かそこらの距離に生命の気配を感じ、だからこそシエルは走り出した。
 決していい予感はしない。
 むしろ最悪の気配しかしないのは現実を余りにも彼女は悲観しているからであろうか?

 そんなものではない――。


「――相沢 祐一」

 佇んでいる存在は虚像だろう。 そう思えてしまうくらい佇んだ祐一の姿はおぼろげに見える。

 歩くのをやめた祐一がそこに佇んでいた。
 
 シエルは祐一に同属のような意思を持っていた。
 親しみににた意思がそこには存在するのを自分でも理解する。
 発端はやはり、知らないところで、自己弁護の効きそうに無い話という共通点。

 シエルにとってのロアであり、祐一にとっての48の王。

 そのせいか、シエルは祐一を救いたいと思う気分すらあった。
 だが、それはアルクェイドやその他大勢の役目であり、自分の役目としては回ってこない。
 現実的にはそうだろう。 シエルは考えていた。

 そして今それは夢想だったことを思い知らされる。
 1日経った。 それだけで、祐一には以前のような覇気が失せているらしい。 まったくこちらには気がつかない。
 何も、シエルに限った事ではなく、無視されると人は悲しいのである。
 悲しいのである――。

 
 シエルが祐一の前に回りこむのは余りにも容易過ぎた。
 虚ろぐ瞳には本当に生命の欠片すら見失えて、甚だおかしかった。
 自分はこんな男に協力を仰ごうとしていたのか? そう訝しくすら思えてくる。
 それは失笑だった。 その失笑にようやく祐一はシエルを確認した。

「――なんだ、あんたか」

「こんにちは。ご機嫌いかがです? 相沢くん」

「……」

 ぷいっ、と祐一は顔を背けるとか細く喉を震わせ声を漏らす。

「自分が、いかに小さい存在か。 荷が重過ぎる事が多すぎて気付かされたんだ。
 お陰ですっごく、今、不機嫌なんだよ――話かけないでくれないか。
 まだ、歩かなくちゃいけない」

 祐一は足を踏み出そうとした。 いや、踏み込みはしたが、足が笑うのだ。
 がくっ、と踏み外した足はせき止める事を知らないらしい。
 祐一は地面へと転がる。

「――」

 シエルは視線を逸らした。
 未だ自分は相沢 祐一を過小評価しすぎていたらしいことへの嫌悪が募ってくる。

 人間というものは脆いのだ。 脆いがゆえに足掻こうとする。
 だが、ここに足掻く事すらできなくなってしまった青年、相沢 祐一がいる。

 シエルは見てしまった。 祐一の右拳の青あざを。 砕けた拳骨を。
 そして、口元に何度はいたかわからない乾いた胃液と血の後を。

 
 ごろりっ――祐一は仰向けになりシエルに苦笑した。

「何だ、まだ、居たのか」

「私は教会の人間です。 困った人間には手をさしのべますよ」

「隣人愛、かよ――けっ、偽善者の言霊とほど胸を悪くすることはないぞ」

「むっ、……」

 シエルの眉間がかげを画いた。 それすら今の祐一にはおかしい。
 だが横隔膜は震えても声はでないで咳き込むのだ。 少し血混じりに。

「一体、何時間、右腕を解放したままでいたんですかっ――」

 それは人間の極致を越している。
 いや、次元すら通り越した疲弊具合である。

 考えられる結論はただ1つ――聖刻を解放したまま、歩き続けた。

 宗教にとって苦行もまたつき物。 特に仏教徒いう区分、悟りを開くという領域においては正にそうだ。
 荒行をする宗派も存在すれば森羅万象を体ではなく、精神で悟ろうとする座禅もある。
 祐一の姿はそれに似ているのではないか? 苦行というなの偶像に彼は苛まれている。
 48の王というプライドに蝕まれている――もはや、壊れかけてお人形さん。

 『未来なんて存在しないんだ』
 祐一の瞳はそうシエルに訴えていた。

「考えれば、俺は世界に爪弾きにされる能力者なんだよ。 世界に嫌われて、何も見えなくなる。
 いや、とっくに俺は自体はイカレきっていたんだ」

「えっ――?」

「これは偽りか? 偽装か? 俺の記憶がさっきから天体観測みたいにぐるぐるまわっている」

「――」

「くそっ……俺は悪くなんか無いっ! 俺は――何もしていないぞっ!!」





 ああっ――アアアアアアアアアアアッ!!!!



 

――もしかすると、彼は私のことなど見えてもいなかったのでしょうか?

 闇の足音は息を潜めて自分に近づいてきている。
 それを感じつつ――。

 






○







 シエルは第7聖典を再び構えた。


 1匹、2匹、3匹、4匹、5匹6匹7匹8匹9匹……!! ∞!!!


「な、なんですかっ!! このおぞましい気配は! 死徒でも冗談じゃ済まされない。
 かの27祖の――ネロ・カオスですらこんなおぞましい瘴気は持っていなかった!!」

 シエルの臓腑を深く突き刺したかのような錯覚が交錯を起した。
 あたかも蹴鞠のようにシエルの肉体は弾ける。

 辛辣な一撃が確実にシエルの全身に壊滅にも等しい一撃を与えた。
 時に、自分の再生能力が呪わしくなる。

 ロア亡き今ですら埋葬機関で培われた体は必要以上に体を強化させているのだ。
 だから、シエルは立ち上がることができた。

――何だって、いうんですか? これは……。

 ∞の正体は自分の目の前にただ浮き彫りにされた闇だった。

 それはそろそろ本降りになってきた雨を素通りしただそこに”存在”していた――。

「――相沢 祐一」

 暗闇の中からおぞましい本性は姿を現す。
 黒薙だ――。 人間体の黒薙が闇から吐き出されるかのように姿を現した。
 その視線は一点、仰向けの相沢 祐一にのみ注がれており、明らかに殺意が浮かぶ。

「――黒薙」

 思わず、シエルは声を漏らした。
 ぎろっ、と視線だけがシエルへと向けられると屈辱的にも全身は金縛りへと陥る。

 
 一歩、一歩――、黒薙が祐一へと近づいて行く。
 不可能だ――。 今の祐一に黒薙を食い止めることなんてできるはずだない。

 


 
「ここでおしまいだ。 お前も――そしてこの世界すらもッ!!!」

 シエルは跳んだ。

 金縛りは堅固では無かったのを幸いに即座に、まるで手品を紐解くかのようにシエルはあっさりと走り出す。
 先に落とした第7聖典まで飛ぶと、躊躇わずにフルオープン。

 そして発射!

 狂いはない。 全身にくるけたたましい衝撃など同でもよく思えてくる。
 埋葬機関、第7位シエル所有の概念武装――”転生批判”を有する第7聖典は虚空で破裂し、黒薙を貫いた。

 飛び散るのは血ではなく、黒い闇だ。

「お前も、死にたいか――ならば、お前も、ここでおしまいだ」

 黒薙は自身の臓腑を探るように黒い鎌を取り出すと冷酷にそう言う。
 そして、憐憫にシエル自身を見るのであった。
 



The Last Moon!


「わたしは、死ぬ――ん――です――か?」
「今だけ、お前を守ってやるよ」




 ばっく